家族のゆくえ (学芸)家族のゆくえ (学芸)
(2006/02/23)
吉本 隆明

商品詳細を見る


「共同幻想論」で有名な、現代日本を代表する思想家、吉本隆明さんの「家族論」です。
もしかすると「吉本ばななのお父さん」と言ったほうが、ピンとくる方が多いのかも知れません。

本書は「家族論」といっても目次を見て頂ければわかるように、前半は「吉本隆明の子育て論」とでもいうべき内容ですので、肩肘張らずに読むことができます。
というわけで、長いのですが目次を転載します。


序章  家族論の場所
     「家庭の幸福は諸悪のもと」
     <対幻想>としての家族
     家族の基本的な構図
     思い出のなかの家族
     「生涯出生率の低下」を読み解く

第1章 母と子の親和力【乳幼児期】
     母親のこころが刷り込まれる
     漱石、太宰、三島の「こころの傷」
     日本的育児の大切さ
     性格形成の大部分は幼児期までに終わる
     内省的な「自己慰安」が芸術の本源
     考える人が過半数を占めれば、世界は変わる
     胎児・早期教育は大きな間違い

第2章 「遊び」が生活のすべてである【少年少女期】
     柳田国男の設定した「軒遊び」の時期
     遊びが生活のすべてである
     子供といっしょに楽しむ
     良い幼稚園の条件
     子育ての勘どころは二か所のみ
     少年少女の事件は親の問題
     徹底的に付きあうほか道はない
     「プロ教師」には「人格」が見えない
     「いい先生」である必要はない

第3章 性の情操が入ってくる【前思春期・思春期】
     前思春期と性の芽ばえ
     倭建命と折口信夫の関係
     漱石の「こころ」をどう読むか
     「怖い親父」が登場してももう遅い
     父のゲンコツ・母のコツン
     「子育ての節約」はありうる
     ルソーの「性の躓き」
     「性」が本格的に身心に入り込む
     性教育などしないこと

第4章 変容する男女関係【成人期】
     いつでも「親の世代」に変わりうる時期
     広がってきた「性の領域」
     フーコーの同性愛理念
     マルクスとシュンペーターの考え
     家庭内暴力・家族犯罪の凶悪化
     森鷗外の作品「半日」の主題
     漱石夫人に「殺意」はあったか
     いまよりも「女性優位」だった時代
     女性はほんとうに解放されたか
     「二児制」と絵馬
     「性愛」と「家族愛」の矛盾
     「民営化」問題など簡単な話
     わが家は後進的かもしれない
     地域の差は種族の差を超える

第5章 老いとは何か【老年期】
     身体への本格的な関心
     老齢は「衰退」を意味するだけではない
     西欧の偉人たちの嘆き
     「考えていること」と「じっさいの運動」の距離
     七十九歳以降の老齢実感
     生涯の本質

補註  対幻想論

あとがき    



私自身は7歳と4歳の子を持っていることから、第2章が特に興味深かった。
そして著者も次のように「子育ての勘どころ」について述べているので、この「少年少女期」に絞って感想など書いてみたいと思います。


序章でも指摘したように、子育ての勘どころは二か所しかないと考えている。
いちばん重要な時期は胎児期もふくめた「乳幼児期」で、二番目の勘どころはこの「少年少女期」から「前思春期」に至る時期だとおもえる。肝要なのはこの二か所だけで、この時期にだいたい人間の性格の大本のものは決まってしまう。この無意識の性格を動かすことはまずできない、というのがわたしの基本的な考え方だ。そのあとは、それを「超える」意識的な課題になる。



私は「どうして学校に行くのか?」という、以前のエントリなどでも書いていますが、「教育」というのはできる限りオーダーメイドであるべきで、親がどれだけ子供のことを観察し、考えたかが重要なのだと思っています。

ちょうど数日前、小学1年生の長男が学校の帰りにおでこを縫うようなケガをして、妻が担任の先生と電話で話をする機会がありました。
その時に担任の先生から、「長男が宿題を7日分提出していない」ことを伝えられたそうです。
その話を聞いてから数日間、私は、「そもそも宿題をする必要があるのか」ということを考えていました。
そんなことを考えるのは馬鹿げているように思う方もいるかも知れませんが、私が観察している限り長男は、「宿題を提出していなくても宿題のテーマはクリアできている」ので、宿題を提出する行為自体にあまり意味はないように思うのです。

とはいえ、先生としてはそこまで生徒一人一人に個別の対応ができるわけもなく、生徒の学習の進捗度合いを知っておく必要もあるでしょう。
そこで長男と話し合った結果、「宿題は先生との約束だから守ろう」という結論に達しました。
お母さんとの約束は「毎朝歯を磨くこと」。
お父さんとの約束は「お父さんが留守のあいだは、お母さんの手伝いをし、妹の面倒を看ること」。
そして宿題は先生との約束だから、先生に提出すること。

「宿題しろ」とか「宿題はするもんだ」と言うほうがずっとラクですが、子供の素朴な「どうして宿題をするのか?」という疑問にも、私なりの回答を考える必要があると思うわけです。
もちろん世の中には「理不尽だけど従わざるを得ない」場合があることも、いずれは知ることになるでしょうが、今はまだ、親子で「ない知恵を絞って考える」時期だと思っています。


さて、著者のいう「少年少女期」というのは、日本の学制でいうと、「小学校へ上がるころから中学生までの時期」になるのですが、「遊びが生活のすべてである」という節に以下のようなことが書かれています。
少し長いのですが引用したいと思います。


親が「勉強しろ」とか「うちへ帰ったらちゃんと机の前に坐れ」というのは余計なことにちがいない。多少、勉強も背負うとすれば、どこか部屋の片隅のほうで教科書を開くとか宿題をするくらいだったら、学校制度と折り合いがつくのではなかろうか。これは早期教育の中心課題におくべき、生涯に影響する問題であるとおもう。本を読むのも遊び、勉強も遊び、というほうがいいとおもう。そういうことであれば、制度だから多少は勉強を背負ってもいいけれども、そのほかの要素を入れるのは邪道だとおもう。これは絶対間違いないと、確信をもってそういえる。わたし自身はご多分にもれず、借財を背負うに似て「遅すぎる」の連続だったとおもっている。
どの家族もたいていその邪道を歩んでいるとおもう。だいたい母親が邪道だし、場合によっては父親だって邪道だとおもう。あるいは小学校の先生も。
小学校の先生は勉強なんか教えなくて、子供たちといっしょになって遊んでいればいい。いちばんいい教育は休み時間にいっしょに遊んで、喧嘩の仕方を教えたりキャッチボールのやり方を生徒に教えてやることだ。絶対それがいちばんいいとおもえる。
要するに、教えないようにして教えることしか身につかないとおもう。自分も遊びながら、生徒も勝手に遊びながら聞いている。わたしはそんな感じで教えてもらいたかった。
少年少女期は生活全体が遊びなのだから、親でも先生でも、もし遊んでやろうというのなら、いっしょになって遊んでしまう。自分も子供たちといっしょになって遊ぶ。それがいちばんいいやり方だ。先生や親にとっては遊んでいる時間は生活の一部だけれども、子供にとっては、この時期、それが全部であり絶対なのだから、そうおもって子供たちに接してもらいたかった。
親の職業によっては、たまに家の手伝いをしている子供もいるかもしれない。学童たちにとっては遊びが生活の全体なのだ。親も先生も「全体」でかまってやらなければ、子供たちに不満が残るとおもう。わたしは自分ができなかったことを述べている。でも、「できもしないくせに」ではないつもりだ。
※強調部分は私によるものです。



「本を読むのも遊び、勉強も遊び」とか「教えないようにして教えることしか身につかない」というのは、私の実感としても、きっとそうなのだろうと思っています。
例えばウチの長男が保育園児だった頃、「小学校入学までに平仮名・片仮名を書けるようにしておかないと落ちこぼれる」という話を、妻が友人から聞いてきたことがあります。

そのとき妻は、長男の見事な鏡文字を見て少々不安に思ったようで、「本当に大丈夫なのか」と少し心配していました。
しかし私が観察する限り、長男はその当時「字」というものに自然と興味をもっていて、平仮名・片仮名・アルファベットをごちゃまぜに書いて遊んだりしていました。
例えば「仮面ライダーディケイド」の絵を描いた横には「Dケイど」などと書いてあるのです。
つまり「字」を書きたい気持ちはあるのですね。
それなので必要に応じて、「『かぶと』ってどう書くの?」などと私に聞いてきます。私はその時に「じゃあ特別に教えてあげるけどナイショだよ」などと、少しふざけながら教えていました。
長男は小学校に入学して半年経ちますが、特に「落ちこぼれ」ていることもありません。

その頃の私の、妻に対する答えは、
「自分の知る限り、平仮名が書けなくて落ちこぼれた子は学校にいなかった。もし万が一それが理由で落ちこぼれるようであれば、違う能力を探したほうがいい。平仮名なんて10日も教えれば覚えるよ」
というものでした。

親戚などからも、「毎日少しでも勉強の時間を決めてやらせたほうがいい」と言われたりしていましたが、私は「そんなことをしたら勉強嫌いになりますよ」と笑いながら答えることにしていました。

大人というのはどうも、落ち着いて机に向かい、遊びの時間とそうでない時間をきちんと区別している子供を見ると安心するようなのですね。
その点私は親から、「勉強しろ」と言われたことが全くなかったし、父親に至っては私が入学した高校の名前もしばらく知らないくらいだったので、気楽なものでした(笑)

そのようなわけで、もし私の教育方針が間違っていて、わが子が「どうしようもない大人」になってしまったら、その全責任は私にあるので、私は私の考える「教育」をしていきたいと考えています。


ところで「企業法務について」のkataさんが、以前「寺井先生と僕」というタイトルで、小学生時代の思い出深い先生の話を書いていらっしゃったことがあります。

今回ご紹介した本の中の「『プロ教師』には『人格』が見えない」という節はまさに、寺井先生に対してkataさんが感じていたことを書いているように感じたので、その部分を引用して終わりたいと思います。


先生にとっていちばん大事なことはふだんの「地」を出すことだけだ。自分がふだん何を勉強しているか、ふだん何をやっているか、また性格はどんなふうか、自分の本来の姿を隠さず出せればそれで充分なのだと思う。それが子供たちのもっている印象と合致したとき教育は成立する。
(略)
プロ教師のいちばんいけないところは、そうした「人格」がないのに技術だけが見えてしまうことだ。授業の進め方や教え方はうまいかもしれないけれど、生活の英知の影がない。そこがいちばんの弱点だ。
プロ教師に教われば、たしかに受験勉強がよくできるようになって、いい高校へ入っていい大学へ進めるかもしれない。だけど、そんなのは全然ダメだぜとおもえてならない。そういう教え方がいちばんダメなんだとおもう。そっぽを向いて授業をしてもいいから、自分の地を出して、地の性格のまま子供に接すればそれでいい。それが生涯に残るいちばんいい教育なんだというのが私の理解といえる。
(略)
熱心な先生、そしてそれを熱心に聞く生徒、というのはいつも「見かけ」だけだ。
(略)
先生のほうも、自分の声でいくよ、自分の性格どおり自然にいくよ、と構えればいい。この時期に仮面のかぶり方などを教えられた生徒は生涯を台無しにするに決まっている。
(略)
肝心なのは生涯の問題か瞬間の問題か、ということがいいたいだけだ。そこをちゃんと区別しないといけない。何事であれ、熱心に教えれば子供が乗ってくるかもしれない。だがそれがどうしたというのだ。大事なことはそこにはない。生涯にかかわる問題をもっともっと大事にすることだ。
せっかくの少年少女期は二度と来ない。一生読み返せる作品がいい。瞬間の問題か生涯の問題かというのもそれと同じだ。時期を択ぶべきだ。