風にころがる企業ホーマー

企業法務や経営に関する話題を中心に、気ままに情報発信してます。

カテゴリ: 子育て

先日、珍しくわが家の小学校1年生の長男が、テストの答案用紙やら作文やら宿題やら、先生に採点されたものを僕のところに持ってきました。

半年ほど前に、「宿題がまったく出ていないようですが・・・」と先生から電話がかかってきたことがあったものの、特に宿題をやれと言うこともなく、ただ時々、こうして本人が持ってきたときに、「おお、すごいね!」などと言うくらいのことしか、僕はしてきませんでした。
そうは言っても、学校で習っているレベルのことができているかどうかは、日常の会話の中で確認しているので、「概ねオッケー」と、僕は判断していています。

それよりも今は、本人が夢中になっているサッカーを思う存分楽しめるように、サッカークラブの練習に付き合ったり、休みの日に一緒にサッカーをしたり、サッカーのDVDを買ってきて一緒に観たり、ということを優先しています。


さて、そんな長男が持ってきた採点後のものの一つに作文がありました。
学校で行われたあるイベントについての感想を書くように言われたそうで、288字詰め原稿用紙の3分の2くらいに、長男のヘタクソな字が並んでいました。

その作文には先生の赤字が入っているのですが、題名に[ ]このようなカッコがあることや、行の下に文字が2~3字オーバーして書かれていたりといったところにチェックが入っています。
そして最後に、「作文用紙の使い方を練習しましょうね」というようなことが書いてありました。

僕はそもそも、学校教育というものを大して信用していないので、「またつまらないことを・・・」と内心思いつつ、そのような指導をしなければならない先生も気の毒だよなぁ、と感じていました。

「作文用紙(原稿用紙)の使い方」なんて、「そろばんの使い方」のようなもので、これから生きていくのに、どれほど役に立つものなのか、皆目見当がつきません。
そろばんであればまだ、「暗算がよくできるようになる」というようなこともあるかも知れませんが、原稿用紙の使い方は「知っていても損はないかも知れない」という程度のことではないかと思います。

題名は一段下げて書き、姓と名の間は1マス空けて、名の下も1マス空ける。

誰が決めたか知りませんが、どうしてそのような決まりがあるのかすらよくわかりません。
それよりも作文の内容に目を向けて欲しいものです。


そこで私は、何年か前から時々書いている文章、いや、正確にいうと「ひとさまの詩を原稿用紙に書き写したもの」を長男にみせてやりました。
中原中也や室生犀星、武者小路実篤などの、気に入った詩を「何となく気持ちが落ち着くから」という理由で、原稿用紙に書き写しているものです。
これは以前このBlogでも触れたと思うのですが、作家の原田宗典さんが教えて下さったことを真似てやっているものです。

私の原稿用紙の使い方は、学校で教わるようなルールは無視。
もちろんその基となっている詩にもルールなどありません。
「いいなあ」と感じるか感じないか、です。

私は長男に、「先生は細かいことを言うだろうけど、はいはいと聞いておいて、あとは別に気にすることはない。お父さんなんか学校で作文を誉められたことが一度もないのだ」というような話をしました。

そうすると長男は、「自分も何か書いてみたい」と言い出したので、原稿用紙を一枚渡してやりました。
「何か詩を書き写したい」というので、僕の部屋にあった宮沢賢治詩集の、「雨ニモマケズ」のページをみせてやりました。
この詩は毎朝NHKでやっているにほんごであそぼでも朗読されていたので、ただ「ボー」っと眺めているだけかと思っていましたが、長男も知っていました。
そして旧仮名使いカタカナ交じりの「雨ニモマケズ」を夢中で書き写していました。

書き写すこと30分。こんな感じにできあがりました。
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久しぶりに「鏡文字」を書くなど、やや興奮して書いた形跡が見受けられますが、書き終えたあとの自慢げな表情が印象的でした。


さてさてその翌日、僕と長男はたまたま近所の古本屋に行くことになりました。
僕があれこれと「掘り出し物」を抱え込んでいると、長男がこの本をみつけてきました。

雨ニモマケズ にほんごであそぼ雨ニモマケズ にほんごであそぼ
(2005/04/26)
齋藤 孝

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ビニールに入っていて中を見ることはできませんでしたが、「本は遠慮なく買っていい」といつも言ってあるので、エイヤっと(300円で)購入しました。

家に帰ってから、「ちょっとお父さんにも見せてくれい」と貸してもらい、パラパラと見てみたのですが、これがなかなかスバラシイ。
詩だけでなく、「生麦生米生卵」といった早口言葉から、「春はあけぼの」の枕草子、果ては落語まで、何とも選ばれている日本語に味わいがある。

そしてページによっては縦に字が書いてあったり、横に書いてあったり、字が躍るように書かれていたりと、実に自由な表現がされています。

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齋藤孝さんが編集をしているだけに、「声に出して読みたい日本語」のような言葉がてんこもりの一冊で、自分の分も一冊欲しくなってしまいました。

そのようなわけで、原稿用紙の使い方よりも言葉の使い方や言葉に対する感性を磨いてあげたいな、と思っている次第です。
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家族のゆくえ (学芸)家族のゆくえ (学芸)
(2006/02/23)
吉本 隆明

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「共同幻想論」で有名な、現代日本を代表する思想家、吉本隆明さんの「家族論」です。
もしかすると「吉本ばななのお父さん」と言ったほうが、ピンとくる方が多いのかも知れません。

本書は「家族論」といっても目次を見て頂ければわかるように、前半は「吉本隆明の子育て論」とでもいうべき内容ですので、肩肘張らずに読むことができます。
というわけで、長いのですが目次を転載します。


序章  家族論の場所
     「家庭の幸福は諸悪のもと」
     <対幻想>としての家族
     家族の基本的な構図
     思い出のなかの家族
     「生涯出生率の低下」を読み解く

第1章 母と子の親和力【乳幼児期】
     母親のこころが刷り込まれる
     漱石、太宰、三島の「こころの傷」
     日本的育児の大切さ
     性格形成の大部分は幼児期までに終わる
     内省的な「自己慰安」が芸術の本源
     考える人が過半数を占めれば、世界は変わる
     胎児・早期教育は大きな間違い

第2章 「遊び」が生活のすべてである【少年少女期】
     柳田国男の設定した「軒遊び」の時期
     遊びが生活のすべてである
     子供といっしょに楽しむ
     良い幼稚園の条件
     子育ての勘どころは二か所のみ
     少年少女の事件は親の問題
     徹底的に付きあうほか道はない
     「プロ教師」には「人格」が見えない
     「いい先生」である必要はない

第3章 性の情操が入ってくる【前思春期・思春期】
     前思春期と性の芽ばえ
     倭建命と折口信夫の関係
     漱石の「こころ」をどう読むか
     「怖い親父」が登場してももう遅い
     父のゲンコツ・母のコツン
     「子育ての節約」はありうる
     ルソーの「性の躓き」
     「性」が本格的に身心に入り込む
     性教育などしないこと

第4章 変容する男女関係【成人期】
     いつでも「親の世代」に変わりうる時期
     広がってきた「性の領域」
     フーコーの同性愛理念
     マルクスとシュンペーターの考え
     家庭内暴力・家族犯罪の凶悪化
     森鷗外の作品「半日」の主題
     漱石夫人に「殺意」はあったか
     いまよりも「女性優位」だった時代
     女性はほんとうに解放されたか
     「二児制」と絵馬
     「性愛」と「家族愛」の矛盾
     「民営化」問題など簡単な話
     わが家は後進的かもしれない
     地域の差は種族の差を超える

第5章 老いとは何か【老年期】
     身体への本格的な関心
     老齢は「衰退」を意味するだけではない
     西欧の偉人たちの嘆き
     「考えていること」と「じっさいの運動」の距離
     七十九歳以降の老齢実感
     生涯の本質

補註  対幻想論

あとがき    



私自身は7歳と4歳の子を持っていることから、第2章が特に興味深かった。
そして著者も次のように「子育ての勘どころ」について述べているので、この「少年少女期」に絞って感想など書いてみたいと思います。


序章でも指摘したように、子育ての勘どころは二か所しかないと考えている。
いちばん重要な時期は胎児期もふくめた「乳幼児期」で、二番目の勘どころはこの「少年少女期」から「前思春期」に至る時期だとおもえる。肝要なのはこの二か所だけで、この時期にだいたい人間の性格の大本のものは決まってしまう。この無意識の性格を動かすことはまずできない、というのがわたしの基本的な考え方だ。そのあとは、それを「超える」意識的な課題になる。



私は「どうして学校に行くのか?」という、以前のエントリなどでも書いていますが、「教育」というのはできる限りオーダーメイドであるべきで、親がどれだけ子供のことを観察し、考えたかが重要なのだと思っています。

ちょうど数日前、小学1年生の長男が学校の帰りにおでこを縫うようなケガをして、妻が担任の先生と電話で話をする機会がありました。
その時に担任の先生から、「長男が宿題を7日分提出していない」ことを伝えられたそうです。
その話を聞いてから数日間、私は、「そもそも宿題をする必要があるのか」ということを考えていました。
そんなことを考えるのは馬鹿げているように思う方もいるかも知れませんが、私が観察している限り長男は、「宿題を提出していなくても宿題のテーマはクリアできている」ので、宿題を提出する行為自体にあまり意味はないように思うのです。

とはいえ、先生としてはそこまで生徒一人一人に個別の対応ができるわけもなく、生徒の学習の進捗度合いを知っておく必要もあるでしょう。
そこで長男と話し合った結果、「宿題は先生との約束だから守ろう」という結論に達しました。
お母さんとの約束は「毎朝歯を磨くこと」。
お父さんとの約束は「お父さんが留守のあいだは、お母さんの手伝いをし、妹の面倒を看ること」。
そして宿題は先生との約束だから、先生に提出すること。

「宿題しろ」とか「宿題はするもんだ」と言うほうがずっとラクですが、子供の素朴な「どうして宿題をするのか?」という疑問にも、私なりの回答を考える必要があると思うわけです。
もちろん世の中には「理不尽だけど従わざるを得ない」場合があることも、いずれは知ることになるでしょうが、今はまだ、親子で「ない知恵を絞って考える」時期だと思っています。


さて、著者のいう「少年少女期」というのは、日本の学制でいうと、「小学校へ上がるころから中学生までの時期」になるのですが、「遊びが生活のすべてである」という節に以下のようなことが書かれています。
少し長いのですが引用したいと思います。


親が「勉強しろ」とか「うちへ帰ったらちゃんと机の前に坐れ」というのは余計なことにちがいない。多少、勉強も背負うとすれば、どこか部屋の片隅のほうで教科書を開くとか宿題をするくらいだったら、学校制度と折り合いがつくのではなかろうか。これは早期教育の中心課題におくべき、生涯に影響する問題であるとおもう。本を読むのも遊び、勉強も遊び、というほうがいいとおもう。そういうことであれば、制度だから多少は勉強を背負ってもいいけれども、そのほかの要素を入れるのは邪道だとおもう。これは絶対間違いないと、確信をもってそういえる。わたし自身はご多分にもれず、借財を背負うに似て「遅すぎる」の連続だったとおもっている。
どの家族もたいていその邪道を歩んでいるとおもう。だいたい母親が邪道だし、場合によっては父親だって邪道だとおもう。あるいは小学校の先生も。
小学校の先生は勉強なんか教えなくて、子供たちといっしょになって遊んでいればいい。いちばんいい教育は休み時間にいっしょに遊んで、喧嘩の仕方を教えたりキャッチボールのやり方を生徒に教えてやることだ。絶対それがいちばんいいとおもえる。
要するに、教えないようにして教えることしか身につかないとおもう。自分も遊びながら、生徒も勝手に遊びながら聞いている。わたしはそんな感じで教えてもらいたかった。
少年少女期は生活全体が遊びなのだから、親でも先生でも、もし遊んでやろうというのなら、いっしょになって遊んでしまう。自分も子供たちといっしょになって遊ぶ。それがいちばんいいやり方だ。先生や親にとっては遊んでいる時間は生活の一部だけれども、子供にとっては、この時期、それが全部であり絶対なのだから、そうおもって子供たちに接してもらいたかった。
親の職業によっては、たまに家の手伝いをしている子供もいるかもしれない。学童たちにとっては遊びが生活の全体なのだ。親も先生も「全体」でかまってやらなければ、子供たちに不満が残るとおもう。わたしは自分ができなかったことを述べている。でも、「できもしないくせに」ではないつもりだ。
※強調部分は私によるものです。



「本を読むのも遊び、勉強も遊び」とか「教えないようにして教えることしか身につかない」というのは、私の実感としても、きっとそうなのだろうと思っています。
例えばウチの長男が保育園児だった頃、「小学校入学までに平仮名・片仮名を書けるようにしておかないと落ちこぼれる」という話を、妻が友人から聞いてきたことがあります。

そのとき妻は、長男の見事な鏡文字を見て少々不安に思ったようで、「本当に大丈夫なのか」と少し心配していました。
しかし私が観察する限り、長男はその当時「字」というものに自然と興味をもっていて、平仮名・片仮名・アルファベットをごちゃまぜに書いて遊んだりしていました。
例えば「仮面ライダーディケイド」の絵を描いた横には「Dケイど」などと書いてあるのです。
つまり「字」を書きたい気持ちはあるのですね。
それなので必要に応じて、「『かぶと』ってどう書くの?」などと私に聞いてきます。私はその時に「じゃあ特別に教えてあげるけどナイショだよ」などと、少しふざけながら教えていました。
長男は小学校に入学して半年経ちますが、特に「落ちこぼれ」ていることもありません。

その頃の私の、妻に対する答えは、
「自分の知る限り、平仮名が書けなくて落ちこぼれた子は学校にいなかった。もし万が一それが理由で落ちこぼれるようであれば、違う能力を探したほうがいい。平仮名なんて10日も教えれば覚えるよ」
というものでした。

親戚などからも、「毎日少しでも勉強の時間を決めてやらせたほうがいい」と言われたりしていましたが、私は「そんなことをしたら勉強嫌いになりますよ」と笑いながら答えることにしていました。

大人というのはどうも、落ち着いて机に向かい、遊びの時間とそうでない時間をきちんと区別している子供を見ると安心するようなのですね。
その点私は親から、「勉強しろ」と言われたことが全くなかったし、父親に至っては私が入学した高校の名前もしばらく知らないくらいだったので、気楽なものでした(笑)

そのようなわけで、もし私の教育方針が間違っていて、わが子が「どうしようもない大人」になってしまったら、その全責任は私にあるので、私は私の考える「教育」をしていきたいと考えています。


ところで「企業法務について」のkataさんが、以前「寺井先生と僕」というタイトルで、小学生時代の思い出深い先生の話を書いていらっしゃったことがあります。

今回ご紹介した本の中の「『プロ教師』には『人格』が見えない」という節はまさに、寺井先生に対してkataさんが感じていたことを書いているように感じたので、その部分を引用して終わりたいと思います。


先生にとっていちばん大事なことはふだんの「地」を出すことだけだ。自分がふだん何を勉強しているか、ふだん何をやっているか、また性格はどんなふうか、自分の本来の姿を隠さず出せればそれで充分なのだと思う。それが子供たちのもっている印象と合致したとき教育は成立する。
(略)
プロ教師のいちばんいけないところは、そうした「人格」がないのに技術だけが見えてしまうことだ。授業の進め方や教え方はうまいかもしれないけれど、生活の英知の影がない。そこがいちばんの弱点だ。
プロ教師に教われば、たしかに受験勉強がよくできるようになって、いい高校へ入っていい大学へ進めるかもしれない。だけど、そんなのは全然ダメだぜとおもえてならない。そういう教え方がいちばんダメなんだとおもう。そっぽを向いて授業をしてもいいから、自分の地を出して、地の性格のまま子供に接すればそれでいい。それが生涯に残るいちばんいい教育なんだというのが私の理解といえる。
(略)
熱心な先生、そしてそれを熱心に聞く生徒、というのはいつも「見かけ」だけだ。
(略)
先生のほうも、自分の声でいくよ、自分の性格どおり自然にいくよ、と構えればいい。この時期に仮面のかぶり方などを教えられた生徒は生涯を台無しにするに決まっている。
(略)
肝心なのは生涯の問題か瞬間の問題か、ということがいいたいだけだ。そこをちゃんと区別しないといけない。何事であれ、熱心に教えれば子供が乗ってくるかもしれない。だがそれがどうしたというのだ。大事なことはそこにはない。生涯にかかわる問題をもっともっと大事にすることだ。
せっかくの少年少女期は二度と来ない。一生読み返せる作品がいい。瞬間の問題か生涯の問題かというのもそれと同じだ。時期を択ぶべきだ。

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その叔母さんのことを僕は、ふみよねえちゃん、と呼んでいた。
いつ気付いたのかは覚えていないが、叔母さんの名前はふみさんなので、ふみおねえちゃんと呼ぶべきだったのだと思う。
いずれにしても、僕のおじさんやおばさんの中では一番若くて、僕が子供の頃にはまだ、おねえさんと呼ぶような叔母さんだった。
そして僕はいつからか忘れたがその叔母さんを、ふみさん、と呼ぶようになっていた。


ふみさんは旦那さん、つまり僕の叔父さんの仕事の関係で、ずっと中国に住んでいた。
僕が生まれた頃にはもう中国にいたと思う。
中国から帰省してきたときには、僕の家に泊まることが多かったように思う。
僕の母親が、弟である叔父さんをとても大事にしていたので、泊まるように勧めていたのかもしれない。

僕が小学校4年生まで使っていた部屋は、居間として家族が寛ぐ部屋でもあったし、両親の寝室でもあった。
その部屋には、ふみさんと叔父さんが海辺で並んで撮られた白黒写真が、額に入れて飾ってあったのを覚えている。
ふみさんが泊まりにくると、その子供たち、つまり僕のいとこが一緒に来るのが嬉しくて、僕は兄貴気取りで一緒に遊んでいた。


ふみさんはとても明るい人で、いつも笑っていた。
そして人と話すときでもいつも、叔父さんのことを、お父さんとか、夫とかではなく、名前に「さん付け」で呼んでいた。
ふみさんは叔父さんのことを話すとき、いつもこう言っていた。
「○○さんは本当に優しくて、私はとても幸せなの」
本当にいつもそう言っていた。
僕が幼いときから言っていたし、僕が結婚して子供を持ってからも同じように言っていた。
そんなとき叔父さんはいつも横で照れ笑いをしていた。


叔父さんも立派な人だった。
中国から日本に戻ってきてしばらくして、また中国に転勤することが決まったとき、子供たち3人は中学生や高校生だった。
叔父さんは単身赴任をしようと考えていたらしいが、子供たちがこう言ったそうだ。
「僕たちはお父さんが行くところについていく」
僕はこの話を聞いて本当にびっくりした。
僕の辞書の中には「お父さんについていく」なんて言葉は載っていなかったからだ。
叔父さんはとても忙しい人だったが、子供の野球の試合の日などは万難を排して駆けつけていたそうだ。
僕が知っている数少ない、仕事と家庭を両方大切にするお父さんだ。
叔父さんの家庭はとても愛に溢れていた。

ふみさんは40代くらいの若いときにリウマチに罹った。
今思うとそれが理由なのかも知れないが、ふみさんたち家族は日本に帰ってきた。
そして叔父さんの稼ぎからすると不思議なくらい、東京都心から離れた小さなマンションに住んだ。
そしてそこで家族5人で暮らすようになった。

僕が東京の大学に行くことになり、住むところを探すために兄と二人で福岡から東京に出てきたときは、ふみさんの家に泊めてもらった。
僕が結婚する前、嫁さんを紹介するためにふみさんの家を訪ねたときは、食べきれないほどの料理を作ってもてなしてくれた。
そのときもやっぱりふみさんは笑顔で、「○○さんは本当に優しい人で、私は幸せなのよ」と言っていた。


ふみさんのリウマチは段々ひどくなり、僕の子供が生まれた7年前には歩くこともままならないようになっていた。
でもふみさんは、僕の子供に会うために、遠くから病院まで来てくれた。
杖をついて、叔父さんの腕に支えられながら。
そのときもふみさんはやっぱり笑顔で、産まれたばかりの僕の子供に声をかけてくれていた。


ふみさんは2年近く前、ガンに罹った。
しかし入院して手術をして、自宅に戻ったと聞いていた。
僕はその頃、仕事と家庭で手一杯だったことと、訪問すると却って疲れさせてしまうのではないかと考えて、お見舞いに行かなかった。
大きくなった長男を見せに行きたい気持ちも強かったが、またの機会にすることにした。


今年の5月、ふみさんが入院しているという話を母親から聞いた。
そして医者から「あと一週間の命」と言われているということを聞いた。


だけどしばらくして今度は、ふみさんが退院したという話を聞いた。
不思議なこともあるものだ、と思うと同時に、愛に溢れた家族に守られているふみさんだから、そういうことがあっても当然のようにも感じていた。


僕は特定の宗教を信じているわけではないが、台所の流しの前にある出窓を神棚に見立て、毎日お猪口に水を入れてお供えしている。
そして手を合わせて家族一人ひとりの顔を思い浮かべながら健康を祈っている。
神様に祈るというわけではないが、何かわからないけど「大きな力を持つ何か」に祈っている。
そしてこの2ヶ月は、思い浮かべる顔にふみさんが加わっていた。

数日前、母親から電話があった。
ふみさんが「もう延命措置をやめてほしい。そして最期にみんなに会いたい」と言ったとのことだった。

昨日福岡から、僕の両親を含め、おじさんやおばさんたちが、ふみさんに会いに上京してきた。
僕も嫁さんと子供たちを連れて、車で2時間ちょっとかけて、ふみさんの家に行った。
東京に住む僕のきょうだいも、家族を連れてふみさんの家に集まってきた。


部屋に入ると、これまでソファーが並んでいた場所に大きな介護用のベッドが置いてあり、そこにふみさんが横になっていた。
まだ50代のふみさんは、すっかりやせ細って、髪も白いものが多くなっていた。
点滴を受け、鼻から酸素を送り込まれているふみさんは、朦朧としているようだった。

肺に穴があいているそうで、肺のあたりを手で軽く押してあげないと、しゃべれないとのことだった。
僕の母親がふみさんの肺のあたりを手で押しながら、話しかけていた。
でもふみさんの言葉はあまりにか細く、殆んど聞き取れない。

皆で順番にふみさんと話をした。
姉は泣きながら話しかけていたが、僕はつらくて見ていられなかったし、聞くこともできなかった。
兄が話をしたあと、僕はふみさんと話をした。

リウマチで曲がってしまった指、すっかり細くなってしまった腕、そんなふみさんの手を両手で包んで話しかけた。
7年前、長男が生まれたときに会いに来てくれたことが本当に嬉しかったことを伝え、長男を抱えてふみさんに見せた。
意識が朦朧としているふみさんが、ニッコリと嬉しそうに微笑んでくれた。
そして初めて顔をみせる長女を抱えて見せた。
やっぱりふみさんは嬉しそうに微笑んだ。

ふみさんに伝えたいことは、手紙に書いてお見舞と一緒に袋に入れておいた。
あまりゆっくり話す時間と元気がないだろうと思っていたので、叔父さんが後で読んでくれることを期待してのものだ。

ふみさんと話をした短い時間、ふみさんが一生懸命かすれた声で僕に伝えてきたことがある。
最初は聞き取れなかったが、口元に耳を近づけて何とかわかった。
「私はもうすぐいなくなるから、○○さんが一人になってしまう。それがとても心配だ」
ふみさんは最後まで、残される夫のことを心配しているのだ。
僕は何度も「大丈夫です。僕たちがいますから、安心してください」と繰り返した。
ふみさんはまたニッコリ微笑んでいた。
僕は最後に「また会いましょう」と言った。


ヘルパーさんが来て、ふみさんの顔や手を拭いていると、ふみさんは眠った様子で、目を閉じていた。
僕たちは長居をするのも悪いので帰ることにして玄関に向かった。
皆が玄関で靴を履いているのを待つ間、僕はふみさんのことを少し離れたところから見ていた。

僕はふみさんへの手紙に、

よき人間をつくることは人生の最も美しい仕事の一つである。



という武者小路実篤の言葉を書いた。
そして、叔父さんを笑顔で支え、立派な子供たちを育てたふみさんは、最高に美しい仕事をしたのだと書いた。

そして、

愛の星の輝くところ、死にゆくものの目にも涙がながれるのを見る。
愛されること何ぞ嬉しき、
愛すること何ぞ嬉しき。



という、同じく実篤の言葉を書いて、家族を愛し家族に愛されることの素晴らしさを教えてくれたふみさんにお礼の言葉を書いておいた。


そんな言葉を思い出しながらふみさんを見ていると涙が溢れてきて、もう一度僕はふみさんのところに急いで戻った。
そしてふみさんのおでこや頬を撫でながら、「ふみさんほど幸せな人を僕は知りません。本当にありがとう。また会いましょう」と何度も言った。気付くと嫁さんも横に立っていた。
ふみさんの腕は、筋肉がすっかり落ちていて、生まれたばかりの長男のふくらはぎの柔らかさを思い出した。
眠っていたふみさんは目を開けてまたニッコリと微笑んだ。
僕は感謝の言葉を伝えて、もう振り返らずに玄関に向かった。


帰りの首都高速は渋滞していて、嫁さんも子供たちも眠ってしまっていた。
僕は長男が生まれたときのことを思い出していた。
前にも書いたことがあると思うが、なかなか産まれてこない長男のため、そのとき嫁さんの体はすっかり弱ってしまっていた。
僕は嫁さんが心配で病院の廊下のソファーで夜を明かしたりしていた。
そのとき、そのソファーの後ろの壁には大きな絵が飾ってあった。
長渕剛の絵だった。
その病院は、長渕剛の子供が生まれた病院でもあった。

長渕剛の「NEVER CHANGE」という曲は、その病院で彼の娘さんが産まれたときのことを歌ったものだ。

僕は特に彼のファンというわけでもないが、中学生の頃に発売された「昭和」というアルバムは好きで、カーナビのHDDにも入れてあった。
その中に「NEVER CHANGE」が入っているので、久しぶりに聞いた。


深夜4時東京の街俺は本気で泣いた
消し忘れたワイパーもなぜかそのままでいい
片手でハンドルつかみ片手でボリュームしぼりながら
優しさってやつを俺は初めて考えた

 Never Change ただ続くだけでいい
 Never Change 今まで生きてきた人生(みち)
 Never Change 血はめぐりめぐって
 Never Change それは変わることなく



そんな言葉を噛み締めた。


僕はこれまで子供に涙を見せないようにしていたが、ふみさんと最初に話をしたときに、僕の目から少しだけ涙が出ていたことに長男は気付いていた。
帰りに外食をしたとき、長男が「どうして泣いてたの?」と聞いてきた。
「とても優しい叔母さんに、もう会えないかも知れないからだよ」と答えると、今度は長女が聞いてきた。
「じゃあどうして、また会おうねって言ってたの?」
僕は、「もしかしたらまた会えるかも知れないし、もし叔母さんが天国に行ったとしても、いつかまた天国で会えるからだよ」と答えた。

ふみさんは本当に、大きなものを残してくれた。
そしていろいろなことを教えてくれた。
笑顔、幸せ、そして家族への愛情の美しさ。

僕は、ふみさんが人を悪くいうのを聞いたことがないし、病気のつらさを聞くこともなかった。
本当にいつかまたどこかで会いたいと思う。


-------
これは、ごくごく私的なことだし、ここに書くようなことではないかも知れない。
だけどどうしても昨日のことをここに残しておきたくて書いた。
これを読んでイヤな思いをする方が、もしかするといるかも知れないが、許してもらいたい。
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私の姉と兄は、たいへんな読書家でした。

勉強をしている姿はあまり見たことがなかったのですが、本だけはよく読んでいました。
兄に至っては、高校時代に国体に出場するほど部活動に熱中していたのですが、そんな中でも本だけはよく読んでいたように思います。

私も、姉兄ほどではないものの、勉強はしないけど本はよく読む、という流儀を踏襲していました。

私が本を読むようになったきっかけは今でもはっきりと覚えています。
小学1年生のある日、家に帰ると食卓の上に一冊の本がポツンと置いてありました。
こんや円盤がやってくる 」という小学校低学年向けの文庫本です。

何故そのような本があるのかはわかりませんでしたが、パラパラと眺めているうちに面白くなってきて、結局一人で初めて、本らしい本を読破したのです。
その時に母親が「すごいねぇ」と大袈裟に誉めてくれました。

それ以来「本を読むと誉められる」と思い、次から次に本を買ってもらっては読むようになりました。
大人になってから気付いたのですが、あれは間違いなく母親の策略です(笑)

そのようなわけでわが家では、勉強は強制されないけど本を読むと誉められる、という暗黙の共通認識ができあがっていました。
ちなみにマンガもOKでした。
小さい頃の私の知識はドラえもんから得たものが多かったように思います。


さて、時は流れて、私の息子もこの春に小学生になりました。
私は以前から息子に、私が本を読むようになったエピソードを聞かせていました。
息子はそのエピソードにとても興味を持ち、私が大事にとっていた「こんや円盤がやってくる」を読みたいと言いました。
そこで私は、本人が読めるところまでは自分で読ませて、ところどころ私が読んであげたりということをしました。
それ以来、息子は学校の図書室で本を借りてきたり、本屋で「怪談レストラン」というちょっとコワイ話のシリーズをねだったりするようになりました。
30年前に私の母親が私にしていたことを、いま私が息子にしているのですね。


そうして思うのは、親というものはあまり表立って子供に「あーせい、こーせい」というのではなく、さりげなく子供を誘導することが大切なんだな、ということです。

ほんの数ヶ月前まで保育園のわんぱくグループで思いっきり遊んでいた息子は、小学生になってはじめの半月ほど、学校に行くのがイヤだと言っていました。
じっと座っていることや、慣れない環境に戸惑っていて、感受性の強い息子にとって小学校は苦痛だったようです。
そこで始めの数日は、私が学校の近くまで一緒に歩いて行きました。
その後、息子があまりにトボトボ歩くのを見かねた「隣のおばちゃん」が、一週間ほど一緒に通学してくれました。
しかしこれでは根本的な解決にならんなあ・・・と思っていた私は、家の前を通っている通学中の小学生に声を掛けました。
「おはよう!キミ何年生?」
「1年生・・・」
「そうか!じゃあ、キミは明日から毎朝、ここのインターホンのボタンを押してくれ!一緒に学校に行こうぜ!」
「うん・・・」
交渉成立。

それ以来、毎朝わが家のインターホンが鳴ります。
そして次第に人数が増えてきて、最近では4人くらいが迎えにきます。
息子は意気揚々と学校に行くようになりました。


たぶんこれを読んだ方の中には、「バカじゃねーの!?」とか「過保護だ!」とか感じる方もいらっしゃるのではないかと思います。
でもきっとそんな方も忘れてしまっているだけで、自分が幼かった頃に、気付かないところで親に守られたり導かれたりということが少なからずあったのではないかと思います。
自分が親になって初めて気付くことというのは、確かに多くあるものです。
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この週末、土曜日は長男の運動会でした。
雨が降りそうでしたが、何とか持ちこたえ、小学生になった長男のはじめての運動会を無事に迎えることができました。

メインはもちろん「かけっこ」。
1年前、「来年はこの運動会で走るんだぞ」と長男と観戦したことを思い出します。
そのときに1年生の走る速さというものをじっくりと研究し、「これなら1番になれそうだ」という感触を得ていました。

長男は保育園の年少さんからはじまった「かけっこ」で、3年連続1番でした。
だからといって「1番になりなさい」などと本人に言うことは全くないのですが、やはり「かけっこ」で1番になるというものは、本人にとっても(ばか)親にとっても嬉しいものです。
運動会というのは何だか血が騒ぎますよね。

運動会前日、長男は、「絶対勝てるよー」と余裕をかましていたのですが、まさに有言実行。
50m走で、ぶっちぎりの1番でした。
夜、一家揃ってビデオを見たのですが、「いいぞー!早いぞー!行けー!」という、ばか親の声がしっかり入っていました(笑)


僕は「原田宗典 武者小路実篤を朗読する」というイベントに参加する予定があったので、長男が出場する種目が全部終わった時点で急いで帰宅し、クルマで武者小路実篤記念館へと急ぎました。
その時の様子はまた改めて書きたいと思います。


そしてイベントが終わって自宅に帰ると、最近一緒に通学している長男の友達とその妹が遊びに来ていました。
長男には、「運動会で頑張ったらおもちゃを一つ買ってあげよう」と約束していたので、わが家一同+友達でゾロゾロとおもちゃを買いに出掛けました。

買ったおもちゃは最近子供たちの間で人気を集めている「ベイブレード」。
現代版ベーゴマのようなもので、部品を交換することによって「攻撃型」に変えたり「防御型」に変えたりして楽しむことができます。

噂には聞いていたのですが、これがなかなか面白そうだったので、僕の分も一つ買って、長男や友達と対決して遊びました。


そして今日、日曜日。
枕元で「ベイブレード」がゴーーー!と回転音を立てていたので、早くに起こされました。
少々迷惑な息子です。

今日は、もうすぐ7歳の誕生日を迎える長男の誕生日ケーキを注文しに行きました。
わが家では、毎年ケーキに絵を描いてもらっています。
昨年は「ティラノサウルス」、一昨年は「仮面ライダー電王」、その前は忘れましたが、僕の誕生日に「仮面ライダーカブト」を描いてもらったこともあります。
その、僕の誕生日のときにはケーキ屋さんの女性に、「メッセージは何と書きましょうか?」と聞かれ、「ひろくんお誕生日おめでとう、でお願いします」と、あたかも「今オレはお父さんとして、息子のケーキを注文しているのだ」というフリをして注文しました。
しかし続けざまに「ろうそくは何本入れますか?」と聞かれ、「34本」とは言えず、「よ、4本お願いします」と言った苦い経験があります。

さて、今年は何にしようかと長男に尋ねたところ、「これがいい」と、一冊の本を持ってきました。

はれときどきぶた (あたらしい創作童話 13)はれときどきぶた (あたらしい創作童話 13)
(1980/09/01)
矢玉 四郎

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僕が小学生の頃に出版された本で、先日図書館で見掛けて、懐かしくて借りてきたものです。
とても面白い話で、先日長男と長女に読んであげたところケタケタと大笑いしていました。
そして長男がケーキに描いてもらおうと開いたページは、ぶたが空から大量に降ってくる絵。

「えっ!?ウルトラマンとか仮面ライダーじゃなくていいの?」
と尋ねる僕に、「ぶたがいい」と答える長男。
「本人がそう言うならそれでいっか」と、本をお店に持って行きました。
「ぶたは6匹くらいしか描けそうにないですが、よろしいですか?」と地元の有名ケーキ屋のお姉さんは真顔で聞いてきました。
僕は「はい、ぶた6匹お願いします」と、やはり真顔で答えました。
どんなケーキに仕上がるのか楽しみです。


そしてその後、今年の長男の誕生日プレゼントを買いに行きました。

先日駅前に、小動物だけを扱うペットショップができたのですが、開店以来長男は休みの日には毎日そこに通い詰めています。
売っているのは、うさぎ・ハムスター・文鳥・カナリヤ・シマリスなど。
その中でも長男はうさぎがお気に入りです。

そこで今年の誕生日プレゼントは、うさぎにすることにしていました。
何種類かのうさぎがいましたが、長男は茶色の「ミニウサギ」が気に入っていたので、購入。
名前は「ぴょん太」と、長男が名づけました。

きちんと育てれば10年近くは生きるそうです。
そんなわけで家族の一員として、わが家にうさぎがやってきました。

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わが家には現在、ざりがに・かべちょろ(やもりのことを福岡ではこう呼びます)・かえる・かいこ・おたまじゃくし・ダンゴ虫・何かの幼虫などなど、様々な生き物がいます。
夏になるとこれにセミ・カブトムシ・クワガタ・バッタ・ちょうちょなど、さらに様々な生き物が加わります。

僕は小学生の頃、新築した家に引っ越した直後、「夏休みの研究」と称してシロアリを大量に捕まえてきて飼っていたことがあるのですが、それよりはまぁマシでしょう。

そんなこんなで、慌しく騒がしい週末でした。
いよいよ夏が近づいてきています。
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