「ビートルズは武者小路実篤だった!」という、ほぼ1年前のエントリーは、いまだに結構な数のアクセスがあります。
上記エントリーは、「原田宗典 武者小路実篤を朗読する」という、武者小路実篤記念館が毎年開催しているイベントに、昨年はじめて参加した私が、その様子を記録したものです。
このBlogではこれまでにも何度か原田宗典さんのことについて書いてきたのですが、私は特に学生時代、原田宗典さんの本がとても好きでした。
そのあたりのことは、
「原田宗典 武者小路実篤を朗読する」に応募してみるというエントリーでも少し触れています。
ところで、私と同年代かそれより少し上の方にとって、原田宗典さんといえば、面白いエッセイをイメージされる方が多いようです(自社調べ)。
しかし私は原田宗典さんに対して、非常に繊細な観察眼でもって「人のこころ」を端的に表現する小説家、という印象を持っています。そして原田宗典さんのそんな側面がとても好きなのです。
ずいぶん前に途中まで書いて、「下書き」のまま未だに陽の目をみていない記事があるのですが、その一部には次のようなことを書いていました。
この機会に白日の下に晒してみたいと思います。
なんだかうまく表現できないのがもどかしいのですが、何となくそんな感じです(笑)
前に私はコピーライティングのことを、「芸術とビジネスのあいだ」と表現したことがありますが、上に挙げた方々というのは、まさにそのバランスを高い次元で実現したうえで、芸術に軸足を移していった一流のアーティストだと思うわけです。
・・・いつも以上に前置きがとんでもなく長くなってしまいました。
今後このBlogをご覧になるときは、最初の30行くらいは飛ばしてもらっても大勢に影響はないかもしれません。
さてそんなわけで、昨年「原田宗典 武者小路実篤を朗読する」に参加して以来、私は詩を読んだり、ひとつひとつの言葉を味わう愉しみを知ったのだか、思い出したのだかよくわかりませんが、疲れが溜まると武者小路実篤記念館に行く、という習慣ができました。
勢いに乗って「武者小路実篤記念館友の会」というものにも入会したほどです。
そして当然のように今年も「原田宗典 武者小路実篤を朗読する」に応募しました。
当選したのか全員参加できたのかは、今年もよくわかりませんが、とにかくめでたいことに案内状が4月末に届きました。
今年も全3回。「全会参加が原則」というのも昨年同様。
そしてその第1回目は先日、5月15日土曜日に行われました。
ここ数ヶ月、嫁さんが体調を崩して実家に帰ったり、長女のアトピーが悪化したりで、「わが家の危機的状況」を案じた母親が福岡から上京してきていたにもかかわらず、「これだけは行かないかんとよ・・・」などと言い残して、参加してきました。
さて、今回は昨年のようにビートルズの音楽が鳴り響いているわけでもなく、会は静かに始まりました。
はじめに、「逃げ場」という、武者小路実篤にしてはずいぶんとネガティブなタイトルの詩が、原田宗典さんによって朗読されました。
また歯医者で受けた治療のことを仔細に書いた実篤の文章も朗読されたのですが、本気なんだか冗談なんだかわからないほど、面白いものでした。
また、原田宗典さんの新作(まだ原稿段階!)を、原田宗典さん自身の朗読で聞くという、とても贅沢な経験もできました。
日々、ビジネス書などを、なかば速読のように読んでいる私ですが、こうして、ひとつひとつの言葉を声に出したり聞いたりして味わうことは、とても心地のよい時間です。
今回もいろいろと面白い話が聞けたり、新しいことに気付いたりしたのですが、私が最も印象に残っているのは、以下のエピソード。
原田宗典さんの知人が、神田の古書店で大正時代に発行された実篤の作品をみつけて、原田宗典さんに送ってくださったそうです。
そこで原田宗典さんは、会の当日、その本を持ってきて参加者に回覧してくれました。
そしてその中からいくつか目にとまったものを朗読されていたのですが、ある文章を朗読した後しばし何か考えているご様子。そして一言、
「このあたり、どうも歯切れが悪いのはどうしてですか?」
と、実篤記念館の主任学芸員である伊藤さんに尋ねます。
伊藤さんという方は、武者小路実篤本人よりも(たぶん)実篤作品の情報が頭に入っているのではないかと思うのですが、びっくり人間の域に達しそうなほどの「実篤ツウ」の女性です。
伊藤さんによると、
「実篤は、『裕福』というわけではなかったけれど、働かなくても『食うに困らない程度』の余裕のある家庭に育った。彼にとってはそれが負い目であったようで、(労働者に対して)歯切れの悪い表現になっているのだと思います」
とのこと。
原田宗典さんの「十九、二十(はたち)」という作品で主人公が、「19、20歳という中途半端な年齢が嫌いだ」というようなことを独白していたように記憶しています。
その本を読んだ当時の私も丁度そのくらいの年齢だったのですが、「早く自立したい、自分の稼ぎだけで食っていきたい」という独立心あふれる気持ちとは裏腹に、所詮親のスネをかじりながら大学に通っているに過ぎない、という現実との葛藤に苛立っていました。
それだけに「十九、二十」の主人公や実篤の思いというものに、「だよなぁ・・・」と感慨を覚えたわけです。
そんなこんなで「原田宗典 武者小路実篤を朗読する」の第1回目は終わりました。
翌週22日は、長女を遠方の病院まで連れて行ったところ、思いのほか長引いてしまい、残念ながら参加することができませんでした。
関係者の方にはご迷惑をお掛けしてしまい申し訳ありませんでした。
そして今週29日は、旧実篤邸という、実篤が晩年を過ごした家の中での会になるとのことです。
実篤邸の中で原田宗典さんが何を感じ、何を話すのか、想像するだけでワクワクしてしまいます。
しかし、ほんのこの間気付いたのですが、29日は長男の運動会の日だったのです。
小学校に入って初めての運動会。親ばかの私としては、応援に行かないという選択肢はありえません。
この期に及んでは「るてるてぼうず」を作って運動会の「雨天順延」を祈るのみです。
長男よ、先生にもらった書類はちゃんとお父さんに渡しなさい。
予定が狂うではないか。
上記エントリーは、「原田宗典 武者小路実篤を朗読する」という、武者小路実篤記念館が毎年開催しているイベントに、昨年はじめて参加した私が、その様子を記録したものです。
このBlogではこれまでにも何度か原田宗典さんのことについて書いてきたのですが、私は特に学生時代、原田宗典さんの本がとても好きでした。
そのあたりのことは、
「原田宗典 武者小路実篤を朗読する」に応募してみるというエントリーでも少し触れています。
ところで、私と同年代かそれより少し上の方にとって、原田宗典さんといえば、面白いエッセイをイメージされる方が多いようです(自社調べ)。
しかし私は原田宗典さんに対して、非常に繊細な観察眼でもって「人のこころ」を端的に表現する小説家、という印象を持っています。そして原田宗典さんのそんな側面がとても好きなのです。
ずいぶん前に途中まで書いて、「下書き」のまま未だに陽の目をみていない記事があるのですが、その一部には次のようなことを書いていました。
この機会に白日の下に晒してみたいと思います。
宮本輝、原田宗典、佐野元春と、私は「元コピーライター」のアーティストを好む傾向があります。
それが何故なのかはよくわからないのですが、短い言葉で何かを表現する才能、しかもそれがマーケティングのためだけのものでなく、アートの域にまで達しているというのが、私を惹きつけるのでしょうか。
なんだかうまく表現できないのがもどかしいのですが、何となくそんな感じです(笑)
前に私はコピーライティングのことを、「芸術とビジネスのあいだ」と表現したことがありますが、上に挙げた方々というのは、まさにそのバランスを高い次元で実現したうえで、芸術に軸足を移していった一流のアーティストだと思うわけです。
・・・いつも以上に前置きがとんでもなく長くなってしまいました。
今後このBlogをご覧になるときは、最初の30行くらいは飛ばしてもらっても大勢に影響はないかもしれません。
さてそんなわけで、昨年「原田宗典 武者小路実篤を朗読する」に参加して以来、私は詩を読んだり、ひとつひとつの言葉を味わう愉しみを知ったのだか、思い出したのだかよくわかりませんが、疲れが溜まると武者小路実篤記念館に行く、という習慣ができました。
勢いに乗って「武者小路実篤記念館友の会」というものにも入会したほどです。
そして当然のように今年も「原田宗典 武者小路実篤を朗読する」に応募しました。
当選したのか全員参加できたのかは、今年もよくわかりませんが、とにかくめでたいことに案内状が4月末に届きました。
今年も全3回。「全会参加が原則」というのも昨年同様。
そしてその第1回目は先日、5月15日土曜日に行われました。
ここ数ヶ月、嫁さんが体調を崩して実家に帰ったり、長女のアトピーが悪化したりで、「わが家の危機的状況」を案じた母親が福岡から上京してきていたにもかかわらず、「これだけは行かないかんとよ・・・」などと言い残して、参加してきました。
さて、今回は昨年のようにビートルズの音楽が鳴り響いているわけでもなく、会は静かに始まりました。
はじめに、「逃げ場」という、武者小路実篤にしてはずいぶんとネガティブなタイトルの詩が、原田宗典さんによって朗読されました。
また歯医者で受けた治療のことを仔細に書いた実篤の文章も朗読されたのですが、本気なんだか冗談なんだかわからないほど、面白いものでした。
また、原田宗典さんの新作(まだ原稿段階!)を、原田宗典さん自身の朗読で聞くという、とても贅沢な経験もできました。
日々、ビジネス書などを、なかば速読のように読んでいる私ですが、こうして、ひとつひとつの言葉を声に出したり聞いたりして味わうことは、とても心地のよい時間です。
今回もいろいろと面白い話が聞けたり、新しいことに気付いたりしたのですが、私が最も印象に残っているのは、以下のエピソード。
原田宗典さんの知人が、神田の古書店で大正時代に発行された実篤の作品をみつけて、原田宗典さんに送ってくださったそうです。
そこで原田宗典さんは、会の当日、その本を持ってきて参加者に回覧してくれました。
そしてその中からいくつか目にとまったものを朗読されていたのですが、ある文章を朗読した後しばし何か考えているご様子。そして一言、
「このあたり、どうも歯切れが悪いのはどうしてですか?」
と、実篤記念館の主任学芸員である伊藤さんに尋ねます。
伊藤さんという方は、武者小路実篤本人よりも(たぶん)実篤作品の情報が頭に入っているのではないかと思うのですが、びっくり人間の域に達しそうなほどの「実篤ツウ」の女性です。
伊藤さんによると、
「実篤は、『裕福』というわけではなかったけれど、働かなくても『食うに困らない程度』の余裕のある家庭に育った。彼にとってはそれが負い目であったようで、(労働者に対して)歯切れの悪い表現になっているのだと思います」
とのこと。
原田宗典さんの「十九、二十(はたち)」という作品で主人公が、「19、20歳という中途半端な年齢が嫌いだ」というようなことを独白していたように記憶しています。
その本を読んだ当時の私も丁度そのくらいの年齢だったのですが、「早く自立したい、自分の稼ぎだけで食っていきたい」という独立心あふれる気持ちとは裏腹に、所詮親のスネをかじりながら大学に通っているに過ぎない、という現実との葛藤に苛立っていました。
それだけに「十九、二十」の主人公や実篤の思いというものに、「だよなぁ・・・」と感慨を覚えたわけです。
そんなこんなで「原田宗典 武者小路実篤を朗読する」の第1回目は終わりました。
翌週22日は、長女を遠方の病院まで連れて行ったところ、思いのほか長引いてしまい、残念ながら参加することができませんでした。
関係者の方にはご迷惑をお掛けしてしまい申し訳ありませんでした。
そして今週29日は、旧実篤邸という、実篤が晩年を過ごした家の中での会になるとのことです。
実篤邸の中で原田宗典さんが何を感じ、何を話すのか、想像するだけでワクワクしてしまいます。
しかし、ほんのこの間気付いたのですが、29日は長男の運動会の日だったのです。
小学校に入って初めての運動会。親ばかの私としては、応援に行かないという選択肢はありえません。
この期に及んでは「るてるてぼうず」を作って運動会の「雨天順延」を祈るのみです。
長男よ、先生にもらった書類はちゃんとお父さんに渡しなさい。
予定が狂うではないか。