風にころがる企業ホーマー(入居作業中)

企業法務や経営に関することについて、情報発信していきまーす!

2010年07月

今日の昼食はとんこつラーメン。

博多出身者の脳は、、
ラーメン→とんこつ
と、デフォルト設定されています。

さて、とんこつラーメンといえば替え玉です。
私は時々、会社近くのラーメン屋に行くのですが、必ず2回替え玉をします。
そして必ず夜、腹痛を起こします。
食べ過ぎが原因なのか、お店の油とか水とかの問題なのかはよくわかりませんが、必ずお腹が痛くなります。
それでも定期的に通ってしまうのは、博多っ子の性でしょう。

さて、そんなとんこつラーメン屋で今日もラーメンをすすっていました。
たいていの方はご存知かと思いますが、替え玉をする時に、
「カタで」
「バリカタで」
などと、麺の硬さを指定するお客さんがいます。

たいていの方は硬い麺を指定するのですが、今日は珍しく、「ヤワ目でお願いします」というお客さんがいました。
そうしたところ店員さんが、

「はーい、15番さんヤワでーす」と野太い声で答えました。

言われたらちょっとヤダな、と思った次第です。
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この3連休は、特にどこかに出掛ける予定もなかったのですが、朝ごはんを食べているときに嫁さんが、
「鎌倉に行きたい」
と言い出したので、昨日はお昼頃から鎌倉に向かいました。

絶好の海水浴日和だけに、道が混んでいることを予想していたのですが、案外空いていました。
家を出て約1時間、円覚寺に到着しました。

先日は鎌倉五山第一位(というのがどのくらいスゴイのかはよく知らない)の建長寺に行ったのですが、今回は第二位の円覚寺です。

円覚寺といえば舎利殿という言葉が頭に浮かぶのは、大学受験で日本史を選択した方であれば、割と共通しているところなのではないかと思います。
私もご多分に漏れず、円覚寺舎利殿なるものを楽しみにしていました。

しかし残念。
門より中に入ることはできず、遠くから建物を拝むことしかできませんでした。

cf4792a9.jpg

(この門の奥が舎利殿。門から50mほど奥に舎利殿が見えました)

円覚寺全体に言えることですが「立入禁止」がやけに多く、どうもこう「Welcome」な感じではなかったですね。
その点、先日行った建長寺は非常にホスピタリティ溢れる(?)お寺でした。


とはいえ、仏日庵というところには別料金を払えば入れるのですが、座ってゆっくりお茶を飲むことができる静かな場所で、子連れでなければ(笑)、ここで雰囲気を味わいながら思索にふけったり会話を楽しんだりするのもいいのではないかと思うようなところでした。

下の写真は方丈という建物の裏庭です。
54c9bad7.jpg



わが家は以前からよく神社やお寺に行くのですが、特に特定の宗教を信仰しているわけではありません。
(キリスト教の日曜礼拝やクリスマス会にお呼ばれされて出掛けていくことすらあります)

しかし以前からとても気になっていた「御朱印」なるもの。
「御朱印帳」という1,000円ちょっとで売っている、蛇腹式というか屏風式というか、例えは悪いかも知れませんが「スタンプ帳」のようなものに、神社やお寺の印を押してもらうものです。
たいていは300円ほど納めて、印を押してもらうようですが、今回私の分と妻の分とをついに買いました。
表紙には大きく「仏心 円覚寺」と書いてある立派なものです。


ところで、円覚寺の御朱印帳やお守りの販売所の方は、何だかこう非常に世俗的な感じのおじさんとおばさんで、これがまた非常に大きな声で雑談をしていて、「どこの誰がどうした」だの、「今日は何時あがり」だのという会話をしていました。
「このおじさんに印をもらうのか・・・」としばし躊躇しながら、蜜蝋などを眺めていましたが、「まぁ、いっか」と思い直し、人生初の御朱印帳と御朱印を頂きました。

でもやはりこのおじさん、御朱印帳に日付や私の名前を書いている最中、長男が手に持った御朱印帳の「見本」を、「あぁ!それはそっちに持って行かないでね!」と注意したり、お金を払うところに敷いてある小さな布を長女が少しずらすと、「あぁ!これはずらさないでね!」と注意したりと、まったく集中してくれないんですね。
何だかありがたみがなくて少し残念でした。
ちなみに筆と硯が脇に置いてあるにもかかわらず、筆ペンで日付を書いてくださるというのも、少々興ざめな気がします。

「建長寺で買えばよかった・・・」
と、私にしては珍しく後悔してしまいました。



さてさて、鎌倉に行くと冬だろうが何だろうが必ず行くのが湘南の海。
今回ももちろん行ってきました。
長男、長女と私の水着を持っていっていたので、夕方4時半頃から海水浴開始です。
長女はある理由があって、海を非常に怖がるので波打ち際をウロウロするばかり。

長男と私はおおはしゃぎです。
泳いだり逆立ちしたりグルグル回転したりと、クタクタになるまで遊びました。

子供が生まれてからは全く行かなくなってしまったサーフィンですが、海に行くとやりたくなりますね。
一時期は冬の2月であろうが何だろうが、休みの日は朝4時頃家を出て、毎週毎週海に通っていました。

長男が生まれたときに河村正美プロにシェイプしてもらったサーフボードには、嫁さんと長男の名前を入れてもらったのですが、今では嫁さんの実家の駐車場で眠っています・・・

長男がもう少し大きくなったら一緒にやろうかな、なんて考えていますが、ウェットスーツは全く入らなくなったので先日全部捨ててしまいました。
ラッシュガードすら入らなくなってしまった自分の太りようが悲しい今日この頃です。

先日購入したMOTOROLAのヘッドセット。


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(2009/07/10)
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iPod touch で通勤中に音楽を聴くのに、なかなか重宝しています。
なんといってもBluetoothなので、煩わしいコード類がないのは非常に快適です。
また音楽を聴かないときに、iPod touch の美しいボディに、コードをグルグル巻きつけるのも何となく申し訳なく思っていましたが、これで解決。
音質にはそうこだわらないので、そっちのほうの評価はできないのですが、まぁ個人的には何の不満もないレベルです。
設定も簡単。iPod 側のBluetooth設定ををオンにして、ヘッドセット側の電源ボタンを長押しするだけ。
これで快適に音楽が楽しめちゃうわけです。


しかし難点が2つ。

一つ目は、ややかさばること。
ビジネスバッグに無理に詰め込むと、PCや本につぶされて壊れるのではないか、とやや不安になります。
そのためカバンに入れるときは、入れ方を少し工夫する必要があります。

二つ目は、当然ですが充電が必要なこと。
片道1時間程度の通勤時間であれば、おそらく2~3日は充電しなくてもいけると思いますので、こまめに充電しなければならない、というわけではありません。
では何が問題かというと、「充電するためにコンセントに差し込んだまま家に忘れて来ること」が問題なのです。
商品に罪はありません。私の問題です。


何故こんなことを書いているかというと、私が今日まさにコンセントに差したまま家を出てしまってガッカリしているからです。
iPod touch にはスピーカーがついているので、音楽を聴こうと思えば聴けないこともないのですが、電車の中でそんな暴挙をするわけにもいかないので、音楽なしの通勤になってしまいました。

また、iPhone と違いiPod touch は、Wi-Fi環境がないとネット接続ができません。
通信各社から出ているポータブルWi-Fiを持っているわけでもないので、私のiPod touchはほぼ自宅でしかネット接続ができない非常に「内弁慶」な代物なのです。
そんなわけで、今日はiPod touch に活躍の場はないようです。


昔は外出するとき、財布さえ忘れなければたいていOKだったのですが、最近は財布・携帯電話・PC・iPod・ヘッドセットと、忘れては困るものが多くて困ります・・・
そのくせ読みきれないほどの本とか雑誌の類は忘れずにぎっしりカバンに入っているんですけどね。


ちなみにデザイン的には↓コッチのヘッドセットの方がカッコいいように思います。


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(2008/11/21)
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うしろにあるMOTOROLAのロゴが光ったりという子供だましの演出も素敵ですが、イヤホンを耳に挿すタイプなので音漏れの心配が減りますよね。
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ここ数日、社内規程全般の改定作業をしています。

用語や体裁の統一はもちろん、規程間の齟齬や実運用との乖離の有無など、内容面をかなりきっちり確認しています。
そうするといくつかは、「これは取締役会の承認が必要だね」というような変更点を発見するわけですが、「これはテキトーに修正しておけば誰も気付かんもんね」というような誤字脱字系の修正点もみつかったります。

前者は新旧対照表を作成して取締役の方々に予めお知らせしておいたのですが、後者はテキトーな時期にテキトーに修正しておこうと、心の中にしまっています。

ところで社内規程というのは、その重要性の割に社内での地位が不当に低いよな、と感じている今日この頃。
規程の制定・改廃を法務が担当するのか総務が担当するのか、会社の方針や規模によっても違ってくるとは思いますが、個人的には法務が総元締めであることが望ましいように思っています。

もちろん、経理系の規程は経理部が、人事系の規程は人事部が、というように管理部門の中で起案部署を分担することは必要かも知れません。
ですが、規程相互間の矛盾を解消したり、必要な規程が調っているか、或いは内容は必要十分なものかなどをチェックしたりするのは、法務担当者の得意とするところではないかと思うわけです。たいした根拠はありませんが・・・
もう一つ、これもたいした根拠ではないのですが法務担当者が望ましい理由として、「規程の言い回しが法律の言い回しに似ている」、ということが挙げられるかと思います。

社内規程なので別に「法律っぽい言い回し」をする必要はありません。
ですます調でも、ハ長調でも、五七五でも、会社が好きなようにすればいいとは思うのですが、まぁそんなところで妙なこだわりを発揮しても仕方がないので、たいていは「法律っぽい言い回し」に落ち着くのではないかと思います。

そんなとき、法務担当者の体にじわーっと染み付いている、「法律っぽい言い回し」の技術が意外な威力を発揮します。
これは例えば、


お金の支払いが遅れたときは結構な利息を取るよ。


というのを、


支払いが遅延した場合には、支払期日の翌日から支払済みに至るまで、年14.6%(年365日日割計算)の遅延損害金を支払わなければならない。


などと、ちょっとそれっぽい言い回しにしてしまう、契約書作成の技術と同じようなものだと思います。

・・・やはりたいした根拠ではないですね。

とはいえ、その重要性の割に「規程のプロ」と呼ばれるような人があまりいないのも事実。なぜなら社内規程は、社内の人が作らないと「絵に描いた餅」になりがちだから。
ごくごく一般的な雛形で済ますことのできる規程もありますが、たいていは社内の実情をそれなりに見極めておかないと実に実効性の低い規程になってしまいます。

規程といえば、就業規則を始めとした人事系の規程類の作成を得意とする社会保険労務士の先生がいらっしゃいますが、「うちの会社にぴったりな購買管理規程を作ってください」と頼むのは、お門違いというものでしょう。
現に、規程類の書籍などを見ても、社会保険労務士の先生が書いた就業規則などの人事系規程に関するものは数え切れないほどありますが、会社に必要となる規程をある程度網羅的にカバーした書籍は数えるほどしかありません(しかも長期間改訂されていなかったりする)。

そんなわけで、法務担当者が経理・人事・総務部門などの協力を得ながら、制定・改廃されていくのが、社内規程本人としても幸せなのではないかと思いつつ、改定作業をしています。

ちなみに最近、規程を公開しているイントラネットの体裁をいじるために、HTMLをちょびっとだけ学びました。
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その叔母さんのことを僕は、ふみよねえちゃん、と呼んでいた。
いつ気付いたのかは覚えていないが、叔母さんの名前はふみさんなので、ふみおねえちゃんと呼ぶべきだったのだと思う。
いずれにしても、僕のおじさんやおばさんの中では一番若くて、僕が子供の頃にはまだ、おねえさんと呼ぶような叔母さんだった。
そして僕はいつからか忘れたがその叔母さんを、ふみさん、と呼ぶようになっていた。


ふみさんは旦那さん、つまり僕の叔父さんの仕事の関係で、ずっと中国に住んでいた。
僕が生まれた頃にはもう中国にいたと思う。
中国から帰省してきたときには、僕の家に泊まることが多かったように思う。
僕の母親が、弟である叔父さんをとても大事にしていたので、泊まるように勧めていたのかもしれない。

僕が小学校4年生まで使っていた部屋は、居間として家族が寛ぐ部屋でもあったし、両親の寝室でもあった。
その部屋には、ふみさんと叔父さんが海辺で並んで撮られた白黒写真が、額に入れて飾ってあったのを覚えている。
ふみさんが泊まりにくると、その子供たち、つまり僕のいとこが一緒に来るのが嬉しくて、僕は兄貴気取りで一緒に遊んでいた。


ふみさんはとても明るい人で、いつも笑っていた。
そして人と話すときでもいつも、叔父さんのことを、お父さんとか、夫とかではなく、名前をさん付けで呼んでいた。
ふみさんは叔父さんのことを話すとき、いつもこう言っていた。
「○○さんは本当に優しくて、私はとても幸せなの」
本当にいつもそう言っていた。
僕が幼いときから言っていたし、僕が結婚して子供を持ってからも同じように言っていた。
そんなとき叔父さんはいつも横で照れ笑いをしていた。


叔父さんも立派な人だった。
中国から日本に戻ってきてしばらくして、また中国に転勤することが決まったとき、子供たち3人は中学生や高校生だった。
叔父さんは単身赴任をしようと考えていたらしいが、子供たちがこう言ったそうだ。
「僕たちはお父さんが行くところについていく」
僕はこの話を聞いて本当にびっくりした。
僕の辞書の中には「お父さんについていく」なんて言葉は載っていなかったからだ。
叔父さんはとても忙しい人だったが、子供の野球の試合の日などは万難を排して駆けつけていたそうだ。
僕が知っている数少ない、仕事と家庭を両方大切にするお父さんだ。
叔父さんの家庭はとても愛に溢れていた。

ふみさんは40代くらいの若いときにリウマチに罹った。
今思うとそれが理由なのかも知れないが、ふみさんたち家族は日本に帰ってきた。
そして叔父さんの稼ぎからすると不思議なくらい、東京都心から離れた小さなマンションに住んだ。
そしてそこで家族5人で暮らすようになった。

僕が東京の大学に行くことになり、住むところを探すために兄と二人で東京に出てきたときは、ふみさんの家に泊めてもらった。
僕が結婚する前、嫁さんを紹介するためにふみさんの家を訪ねたときは、食べきれないほどの料理を作ってもてなしてくれた。
そのときもやっぱりふみさんは笑顔で、「○○さんは本当に優しい人で、私は幸せなのよ」と言っていた。


ふみさんのリウマチは段々ひどくなり、僕の子供が生まれた7年前には歩くこともままならないようになっていた。
でもふみさんは、僕の子供に会うために、遠くから病院まで来てくれた。
杖をついて、叔父さんの腕に支えられながら。
そのときもふみさんはやっぱり笑顔で、産まれたばかりの僕の子供に声をかけてくれていた。


僕が数年前、体調を崩して仕事をしていなかった時期、ふみさんはとても心配してくれていた。
叔父さんとふみさんは、無期限無利息の出世払いでお金を貸してくれる、と言ってくれた。
何とかそれは借りずに済んだが、僕がまた働き始めたときにはとても喜んでくれた。
そのときに叔父さんが「復帰祝いに食事に行こう」と誘ってくれたのに、ちょっとした理由で遠慮した不義理を、僕は今でも反省している。


ふみさんは2年近く前、ガンに罹った。
入院して手術をして、自宅に戻ったと聞いていた。
僕はその頃、仕事と家庭で手一杯だったことと、訪問すると却って疲れさせてしまうのではないかと考えて、お見舞いに行かなかった。
大きくなった長男を見せに行きたい気持ちも強かったが、またの機会にすることにした。


今年の5月、ふみさんが入院しているという話を母親から聞いた。
そして医者から「あと一週間の命」と言われているということを聞いた。


だけどしばらくして今度は、ふみさんが退院したという話を聞いた。
不思議なこともあるものだ、と思うと同時に、愛に溢れた家族に守られているふみさんだから、そういうことがあっても当然のようにも感じていた。


僕は特定の宗教を信じているわけではないが、台所の流しの前にある出窓を神棚に見立て、毎日お猪口に水を入れてお供えしている。
そして手を合わせて家族一人ひとりの顔を思い浮かべながら健康を祈っている。
神様に祈るというわけではないが、何かわからないけど「大きな力を持つ何か」に祈っている。
そしてこの2ヶ月は、思い浮かべる顔にふみさんが加わっていた。

数日前、母親から電話があった。
ふみさんが「もう延命措置をやめてほしい。そして最期にみんなに会いたい」と言ったとのことだった。

昨日福岡から、僕の両親を含め、おじさんやおばさんたちが、ふみさんに会いに上京してきた。
僕も嫁さんと子供たちを連れて、車で2時間ちょっとかけて、ふみさんの家に行った。
東京に住む僕のきょうだいも、家族を連れてふみさんの家に集まってきた。


部屋に入ると、これまでソファーが並んでいた場所に大きな介護用のベッドが置いてあり、そこにふみさんが横になっていた。
まだ50代のふみさんは、すっかりやせ細って、髪も白いものが多くなっていた。
点滴を受け、鼻から酸素を送り込まれているふみさんは、朦朧としているようだった。

肺に穴があいているそうで、肺のあたりを手で軽く押してあげないと、しゃべれないとのことだった。
僕の母親がふみさんの肺のあたりを手で押しながら、話しかけていた。
でもふみさんの言葉はあまりにか細く、殆んど聞き取れない。

皆で順番にふみさんと話をした。
姉は泣きながら話しかけていたが、僕はつらくて見ていられなかったし、聞くこともできなかった。
兄が話をしたあと、僕はふみさんと話をした。

リウマチで曲がってしまった指、すっかり細くなってしまった腕、そんなふみさんの手を両手で包んで話しかけた。
7年前、長男が生まれたときに会いに来てくれたことが本当に嬉しかったことを伝え、長男を抱えてふみさんに見せた。
意識が朦朧としているふみさんが、ニッコリと嬉しそうに微笑んでくれた。
そして初めて顔をみせる長女を抱えて見せた。
やっぱりふみさんは嬉しそうに微笑んだ。

ふみさんに伝えたいことは、手紙に書いてお見舞金の袋に入れておいた。
あまりゆっくり話す時間と元気がないだろうと思っていたので、叔父さんが後で読んでくれることを期待してのものだ。

ふみさんと話をした短い時間、ふみさんが一生懸命かすれた声で僕に伝えてきたことがある。
最初は聞き取れなかったが、口元に耳を近づけて何とかわかった。
「私はもうすぐいなくなるから、○○さんが一人になってしまう。それがとても心配だ」
ふみさんは最後まで、残される夫のことを心配しているのだ。
僕は何度も「大丈夫です。僕たちがいますから、安心してください」と繰り返した。
ふみさんはまたニッコリ微笑んでいた。
僕は最後に「また会いましょう」と言った。


ヘルパーさんが来て、ふみさんの顔や手を拭いていると、ふみさんは眠ったようすで、目を閉じていた。
僕たちは長居をするのも悪いので帰ることにして玄関に向かった。
皆が玄関で靴を履いているのを待つ間、僕はふみさんのことを少し離れたところから見ていた。

僕はふみさんへの手紙に、

よき人間をつくることは人生の最も美しい仕事の一つである。



という武者小路実篤の言葉を書いた。
そして、叔父さんを笑顔で支え、立派な子供たちを育てたふみさんは、最高に美しい仕事をしたのだと書いた。

そして、

愛の星の輝くところ、死にゆくものの目にも涙がながれるのを見る。
愛されること何ぞ嬉しき、
愛すること何ぞ嬉しき。



という、同じく実篤の言葉を書いて、家族を愛し家族に愛されることの素晴らしさを教えてくれたふみさんにお礼の言葉を書いておいた。


そんな言葉を思い出しながらふみさんを見ていると涙が溢れてきて、もう一度僕はふみさんのところに急いで戻った。
そしてふみさんのおでこや頬を撫でながら、「ふみさんほど幸せな人を僕は知りません。本当にありがとう。また会いましょう」と何度も言った。気付くと嫁さんも横に立っていた。
ふみさんの腕は、筋肉がすっかり落ちていて、生まれたばかりの長男のふくらはぎの柔らかさを思い出した。
眠っていたふみさんは目を開けてまたニッコリと微笑んだ。
僕は感謝の言葉を伝えて、もう振り返らずに玄関に向かった。


帰りの首都高速は渋滞していて、嫁さんも子供たちも眠ってしまっていた。
僕は長男が生まれたときのことを思い出していた。
前にも書いたことがあると思うが、なかなか産まれてこない長男のため、そのとき嫁さんの体はすっかり弱っていた。
僕は嫁さんが心配で病院の廊下のソファーで夜を明かしたりしていた。
そのとき、そのソファーの後ろの壁には大きな絵が飾ってあった。
長渕剛の絵だった。
その病院は、長渕剛の子供が生まれた病院でもあった。

長渕剛の「NEVER CHANGE」という曲は、その病院で彼の娘さんが産まれたときのことを歌ったものだ。

僕は特に彼のファンというわけでもないが、中学生の頃に発売された「昭和」というアルバムは好きで、カーナビのHDDにも入れてあった。
その中に「NEVER CHANGE」が入っているので、久しぶりに聞いた。


深夜4時東京の街俺は本気で泣いた
消し忘れたワイパーもなぜかそのままでいい
片手でハンドルつかみ片手でボリュームしぼりながら
優しさってやつを俺は初めて考えた

 Never Change ただ続くだけでいい
 Never Change 今まで生きてきた人生(みち)
 Never Change 血はめぐりめぐって
 Never Change それは変わることなく



そんな言葉を噛み締めた。


僕はこれまで子供に涙を見せないようにしていたが、ふみさんと最初に話をしたときに、僕の目から少しだけ涙が出ていたことに長男は気付いていた。
帰りに外食をしたとき、長男が「どうして泣いてたの?」と聞いてきた。
「とても優しい叔母さんに、もう会えないかも知れないからだよ」と答えると、今度は長女が聞いてきた。
「じゃあどうして、また会おうねって言ってたの?」
僕は、「もしかしたらまた会えるかも知れないし、もし叔母さんが天国に行ったとしても、いつかまた天国で会えるからだよ」と答えた。

ふみさんは本当に、大きなものを残してくれた。
そしていろいろなことを教えてくれた。
笑顔、幸せ、そして家族への愛情の美しさ。

僕は、ふみさんが人を悪くいうのを聞いたことがないし、病気のつらさを聞くこともなかった。
本当にいつかまたどこかで会いたいと思う。


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これは、ごくごく私的なことだし、ここに書くようなことではないかも知れない。
だけどどうしても昨日のことをここに残しておきたくて書いた。
これを読んでイヤな思いをする方が、もしかするといるかも知れないが、許してもらいたい。

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